熟女と有島武朗 ―愛の逃避行、終焉の地で2人は何を見たのか―

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有島武朗―明治期から大正期にかけて活躍した小説家である。当時、個性・自由を尊重する文学の党派、白樺派に在籍していた文豪で切支丹(キリシタン:キリスト教徒の意。後に背教した)である。明治及び大正時代は近代日本文学の幕開けとなった重要な転換期で、志賀直哉、芥川龍之介、川端康成、島崎藤村など現代にまで名を残す多くの天才を輩出したが、私は有島武郎が特別好きだ。

有島武郎は明治43年(32歳)、小説『かんかん虫』でその才能を開花させ、名作『或る女』『カインの末裔』などの小説作品や評論『惜しみなく愛は奪ふ』など多くの作品を発表した。志賀直哉、武者小路実篤らと共に同人誌『白樺』の発行に参加し、白樺派の中心人物として華々しい文壇デビューを果たしていた。しかし彼の作風はどこか背徳感が漂っているように私は思う。その諦観の念に満ちた作品、そうさせるに至った彼の壮絶な人生、生き方、そして幕の引き方―どれをとっても私を魅了して離さない。

彼の背景にあるものとは?それは「諦念」ではないか。彼はいつの時代も大きな力によって支配され、そしてそれに押し潰されていた。出生した当初から既に重圧は彼に圧しかかっていた。武郎は1878年(明治11年)3月4日、大蔵省官僚の有島武の子として誕生する。父・武は旧薩摩藩士で、薩摩藩(現在の鹿児島県)と言えば版籍奉還及び王政復古など一連の政治改革―いわゆる“明治維新”を遂行した中心の藩であり、多くの政客や実力者を輩出した強大な藩である。また“九州男児”という言葉からも分かるように、男尊女卑の気風が強く男児への教育が極めて厳しい土地柄だ。例に洩れず父・武は大蔵官僚の地位を持つエリート中のエリート、長男として誕生した武郎は両親の期待を背負って西洋風の英才教育を受けていた。わずか4歳で横浜英和学校(現:横浜英和学院)に入学、10歳のとき学習院予備科へ、19歳のとき学習院中等全科を卒業した。はっきり言ってエリート街道まっしぐらである。年少期から早くも始まる華々しい経歴とは裏腹に、彼に寄せられる両親の期待、そしてそのプレッシャーは幼少の彼の双肩では受け止め切れない程大きなものだったことであろう。その後の学歴も物凄いもので、札幌農学校に入学(この時の教授は農学者で教育者の新渡戸稲造であり、2人は接点を持っていた)、その後軍役を経て渡米し名門ハーバード大学で学んだ。(ちなみに彼は北海道にゆかりがあるため、北海道ニセコ町に有島記念館が建てられている。ニセコは彼の出世作『カインの末裔』の舞台になった土地で、他にも『生まれ出づる悩み』なども北海道が登場する。)

しかし、彼が重圧に押し潰されていたのはその華々しい経歴から来るプレッシャーだけではない。むしろ名門ハーバードの大学院まで行き着いているわけで、経歴としてはこれ以上にないくらい成功していると言っても良い。彼を押しつぶした重圧―それはその光に包まれた経歴の裏に見え隠れする影の部分だ。写真を見るとわかるのだが、武郎はくりっとした瞳が印象的な童顔気味の端正な顔立ちなをしていて、少年時代はさぞや女児と見紛われることが多かったことであろう。少年期通っていた学校で、その眉目秀麗な容姿のため朋輩から稚児として男色行為の対象として扱われていたのである。男色(衆道)とは男性同士の恋愛のことで、現代でこそレッテルを貼られた影の存在として扱われているが、日本でも武家社会や寺院などの男性社会では常日頃行われていた。戦国時代の武将などそれがステータスであるかのように稚児を傍に置いていた。織田信長の小姓である森蘭丸は絶世の美男子であったとの呼び声が高いし、武田信玄などは家臣兼愛人だった高坂弾正昌信に浮気の弁明状を送っている。そのラブレターは今も現存しており、甲斐国(現・山梨県)甲府市の武田家の屋敷跡に建立された武田神社の宝物庫に保管されている。話が逸れたが、戦国時代と同様、未だ武家社会の名残が残る明治時代に若き日を過ごした有島氏は、強制的な男色の相手役として思春期を過ごした。そこに在ったものは集団への敗北感と自身が堕落したと感じる自責の念だったのかも知れない。少なからず屈折した成長を遂げたことは確かである。

そしてその特徴は最期の時に最も顕著に現れている。男爵家の血統を持つ神尾安子と結婚し三男を儲け、執筆活動も軌道に乗り出し幸福感に包まれたのも束の間、結核を患っていた安子は武郎の作家としての大成を願いつつ現世を旅立った。そしてこれにより、武郎は皮肉にも執筆活動に打ち込むこととなり、文壇の頂点へと順調に駆け上がって行った。そして愛する妻を失った彼の悲しみと妻への愛を貫くひたむきさ、三人の子供を抱えながら独身を貫く潔癖さに、多くの女性ファンが熱狂的に彼を支持した。

しかしここから武郎の人生の歯車が狂い始める。妻に先立たれていた武郎は、中央公論社『婦人公論』の女性記者で人妻だった波多野秋子と恋愛関係に陥るのである。秋子は相当の美貌の持ち主で、子爵・波多野春房の夫人であった。秋子はその美貌からか次々に大物作家たちとの執筆の契約を結び、武郎の許へも出向いた。当初武郎は秋子からの原稿依頼を断ったが、有島宅への何度かの訪問の末、執筆を承諾した。次第に2人の仲は親密なものになって行き、とうとう不倫関係にまで発展してしまう。そしてその事が秋子の夫・春房の耳に入り、春房は11年間の扶養と秋子への投資、人妻の不貞行為が姦通の罪に問われるという当時の時代背景、そして不倫による武郎の潔癖なイメージの打破による作家生命の断絶を笠に、武郎に金銭的解決を要求した。それは訴訟騒ぎにまで発展したが、武郎は「愛する女を金に換算するような行為は断じてしない」と春房の報復めいた恐喝を突っぱねた。「警察に突き出す」という春房の脅迫にも動じなかったが、さんざん追い詰められた結果、2人は“心中”という道を導き出してしまった。

1923年(大正12年)6月9日、2人は誰にも行き先を告げず、軽井沢の武郎の別荘である浄月荘に向かった。梅雨にちょうど入った頃の、高山地帯で避暑地である軽井沢と言えど湿気の多いじめじめした日であった。そこで2人は心中を図る。武郎45歳、秋子32歳のときであった。いしょには「森厳だとか悲壮だとか言えば言える光景だが実際私達は、戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前にシがかくまで無力なものだとは此の瞬間まで思はなかった。おそらく私達のシガイはフランして発見されるだろう」と残されていた。幼少期に稚児として過ごした経験、恋愛関係にあった2人が自ら“シ”という選択肢を選んだこと・・この2つの要因は私は武郎が「諦念の人」というイメージを抱かせたのである。

自ら命を絶つ人種には2通りのタイプに分かれる。ナキガラが綺麗な状態で発見されることを望むか否か、である。前者はその願望が少しある、という程度の「志望者」に過ぎないが後者は完全に現世を諦め生きる意味を見失った「企図者」である。武郎は完全なる後者だった。2人は6月に入って間もない頃命を絶ち、梅雨真っ只中の1ヶ月間そのまま放置され、7月7日に発見された。発見までに1ヶ月の長時間を有し、発見時のイタイの様子はそれは凄まじいものだったという。くさる、という言葉では表現しきれない程イタイの損傷が激しく判別も付かなかったらしい。2人の体には数えきれない程のウジが湧き、現場はウジの巣窟と化していたという。しかし武郎のイショにもある通り、2人はその後自分たちのイタイがどうなるか予測できていた。シゴに自分たちのイタイがどうなるかなどさほど問題では無かったのだろう。若しくは自分たちを追い詰めた者、敷いては社会への復讐の意思を込めワザとそうしたのかも知れない。2人が綺麗な状態で発見されるのを望んでいたら、まずこの方法は選ばなかっただろうし予測が付いていたことは先も述べた。イタイとその現場の状況が凄まじければ凄まじい程、強いイメージを世間に植え付けられる。つまり2人は自身の壮絶なシニザマを世間に見せつけることによって真実の愛や自身のアイデンティティーの主張、又は常人には到底及ばぬ何かを訴えていたのかも知れない。

この事件は当時の世間をセンセーショナルに騒がせた。そして私をこの上なく魅了させた。愛する者同士が、他人の干渉をきらい2人だけの世界に行く。そこに真実の愛を見出してしまうのは間違いなのかもしれないが、それこそが究極の愛なのかもしれない。2人は最後の時何を見たのか?何を思い浮かべたのか?絶望、復讐心、逃避による魂の救済?いや、違う。最後の時に見たものは紛れもなく互いの姿だけであり、網膜を介し瞳の中のガラス体を占めていたものは最愛の人の安らかな顔だけだった。その実像は視覚神経を通り脳に伝達された。最愛の人との美しい想い出で脳内をいっぱいにし、安らかな多幸感に包まれながら天国へ旅立ったのだと思いたい。2人の冥福を心から願わずにはいられない。

私はいつかこの浄月荘を訪れたいと考えている。残念ながら現在建つ浄月荘は当時のものではなく移築したものらしいが、それでも私に何かを訴える思念が残っているかもしれない。私はそこを訪れたとき何かを感じるだろうか?ただの物質としての浄月荘という空間?或いは―

天上からぶら下がっている、ウジにまみれた2ツのミノ虫。2人は人間という殻を脱ぎ棄て巨大な蓑虫に擬態した。しかしこれ程迄に美しい光景がこの世にあるだろうか!自分の体がどうなるかを予測しつつ、其れを厭わず愛を貫いた結果だ。私は是程美しい愛の末路を知らない。よくありがちな、口先だけの偽善に満ちた情愛とはもはや次元が違う。その光景を目の当たりにしたらこう叫ばずにはいられないだろう。「ああ、なんて、美しいんだ!」


有島武郎はその著書『惜しみなく愛は奪ふ』でこう述べている。


―愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。


これは、ロシアの小説家で平和主義者でもあるレフ・トルストイの言葉「惜しみなく愛は与う」に対抗したものであることは明らかだ。武郎は自らの経験から、レフの言葉を偽善的に感じ反発を覚えたのかもしれない。これと同じようにキリスト教に疑念を抱き背教者の道を歩むことを選んだのかも知れない。キリスト教の経典ではないが、口先だけで愛を語るのは簡単だ。それにより救われる人も確かにいるだろう。しかし愛の実態は常に何かを犠牲にしている。そして実際彼の人生はその通りになった。人を愛したことにより自身の立場や名声、その他様々なものを「惜しみなく」奪われ、終には自身の存在まで奪われたのだから。




参考文献
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