熟女と白昼夢(ハクチューム) ―或る女のキヲク―

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人間といふものは寝てばつかりの生き物のやうだ。事実、私は最近いつも眠い。だうやら“いくら寝ても眠い病”という奇病にかかってしまったらしい。この病は不治の病で命にも関わる難病だ。実際昼夜問はず寝てばかり居る。

今日も有島武朗の小説を読みながらいつのまにか昼寝してしまつた。寝床は特にお気に入りのそふぁだ。弾力のある革製のソファーに寝そべりながら私は晴れ渡る秋空を思ひ浮かべていた。瞼は閉じているので実際の青空は見れないが、目を瞑っていても容易に想像でき得る程の秋晴れそのものだつた。

瞳を閉じていると眼球は瞼の裏側を見ているだけで、真っ暗な筈。しかし実際の瞼の中の世界は違った。明るい日差しが射している・・仄かに赤い。そこへ聞こえる子供の無邪気な声。どうやら赤蜻蛉を取りに行くやうだ。

「早く、来いよ。」
「待つて、置いて行かないで。」

2人の少年は其のやうな会話が私の聴覚のみを刺激した。小学校4年生といったところだらうか。

しかしなんだか様子が変だ、なんだか違和感がある。どこか幻想的だ。

「ああ、これは、あの時見た・・」

私は沸々と思ひ出して居た。若かりしあの日、自宅から一刻ほど行つた所の或る小さな町の、気まぐれに立ち寄った河原での出来事、前頭葉に蓄積された記憶の断片が再生されて行く。そこで視た幻影が。

その時私は吉井と云ふ町の見慣れない風景の中に居た。誰かと一緒だつたやうに思はれるが定かでは無い。
今日と同じ位よく晴れた、しかし晩夏の日だ。その町は全体的にどこか古暈しくノスタルジックな雰囲気が漂っていた、さう昭和初期といつた所だ。
平屋の商店が軒を連ね木造の桟橋が架かってゐる。下には時折りきらきらと飛沫を上げながら川が流れてゐる。

河原に下りていくと私は得体の知れない違和感に襲われた。しかし小気味悪い物では無い。あまりの眩しさに目を細めると、対岸が揺れてゐた。
恐らく半刻ほど其の人 ―顔の象像は既に思ひ出せないが― と其処に居たが会話は無かった。ただ漠然と其の川を眺め、不思議な感覚に浸っていた。そして思つた「此処は、幽界(かくりょ)だ」

幽界とは存在の根源である本質(イデア)の世界、即ち現世(うつよ)の対になっている精神世界のやうな次元で、確かに存在して居るとも、意識下の領域であるとも云へる。この世と表裏一体であり極めて近い層に存在しているが決して重なることは無く、時折現世に影響を及ぼす程度である。一つ確かな事は、人が「畏怖」「感動」「感嘆」「驚愕」など心を揺さ振られる程の風景に触れた時、その場所は幽界に繋がつて居ると云ふことだ。

暫く其処に居たやうな、それとも刹那だつたのかも解らない、時間の流れも正常とは違う不思議な感覚に身を浸しながら、それでも私は川を、見てゐた。

「そろそろ上がらうか。」
其の人が発した問い掛けにハッとして私は答へた「さうだね。」

そして陥る深淵の層。橋へ上った筈なのに、意識は更に深みへと誘われた。どこか変だ。
「ミーンミーン」
もう夏も終いだと云ふのに、蝉がその短命が尽きる前に自身の存在を主張しているかのやうに鳴き、晩夏の昼下がりを覆っていた。
「ミーンミーンミーンミーンミーン」
尚も鳴く小さき生命体の群集。
「ミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーンミーン」
ああ五月蠅い・・五月蠅い?いや、何か違う。頭の中に響くその鳴き声はどこか違う次元で響いているやうにも思へる。
蝉の鳴き声が五月蠅いという既成概念により五月蠅いと感じているだけで、実際には静寂だつたのかもしれない。頭の中に木魂する生命の叫びは段々と遠退いて行ったり、突如として大きくなったりしながらずっと感じていた幻惑的な感覚をさらに演出してゐた。

いつから居たのか、虫取り網と籠を持った2人の少年が嬉しそうに私の周りを駆け回って通り過ぎた。土で汚れた無地のタンクトップと短パン、頭は揃って坊主頭だ。蝉を、捕りに行くのだらうか。

遠退いて行く2人の笑い声。
夏の日差しがやけに鬱陶しい。しかし私は太陽の光を遮ることも、言葉を発することも出来ず、ただただ其処に立ち尽くして居た。


段々と近付いて来る、私に呼び掛ける声と自動車の走る音。はっとした。先刻まで車など一台も走ってゐなかったのではないか。私と、少年と、蝉の鳴き声と・・古ぼけた橋と何も無い河原だけだつたじゃないか。風景がみるみる現代的に成長して行く。


「帰らう」


帰路の途中私は思った「果たしてあの少年達は私の存在を認識してゐたのだらうか。」



その頃のことは、あまりもう思い出せない。まう何年前の出来事だったかも定かでは無いし、其の出来事が実際に在ったのか、ただの夢だつたのかを証明する術も無い。ただ偶に突如として思い出されることがある、今日のように。私は長椅子から起き上がって青空を見上げた。天まで届くやうな冴え渡った秋晴れに少し切なくなつた。


感慨に耽った―


考えてみると、あの頃の私は光の中に存在して居たやうに思います。そしていろいろな場所に住み、たくさんの人に出会いました。しかし私の人生の中にはだうやら永く続く縁は存在しないやうです。かつての仲間も恋人も、今はもう去り現在何をしているかも解りません。大変仲の良かったあの子も。そして私は人と深く契る事を絶ったのです。
そして気付きました、多くのキヲクが失われていることに。あの出生の地を飛び出して以来、私がどこで、どんな人と、どんなふうに生活して現在に至った経緯が思ひ出せないのです。大好きだつたあの子といつも遊んでゐたのはいつだった?あの閉ざされた空間で神の啓示に従っていたのは?去年は何をしてゐた?昨日は?私はまう断片的にしか思ひ出すことが出来ません。いつからか私の周りに闇が立ち込め深淵の縁に堕とされました。光と闇の境目が何と無く在るやうに思います。

嗚呼もう何も、思ひ出せません。あの時の私は本当に存在しているのでしょうか?実は全てが夢で、嘘で、私は未だ胎内から排出されても居ないのではないのですか?これは貴方の復讐なのですか。
あのときの私は確かに光の中に存在して居りました。現在は、光の世界のどこからか闇が生まれてきて、其れが少しづつ光を侵食してゐつたのです。さうして光をまるまると呑み込むと常闇は私の世界を覆い尽くしました。仕方が無く私は真っ暗闇の中手探りで進んできたのです。さう信州善光寺の胎内巡りのやうに。しかし妙だ、私はあの刻、御本尊の地下のあの空間からは抜け出した筈。地下空洞を這いずり回りながら原罪を一歩一歩洗い流し地上の本堂に這い出たと同時に、贖罪はもう済んだ筈。未だお許しにはなつてくれないのですか。

さう私の罪名は数へれない程の裏切り。さうして得た一時の快楽と共に堕天してゐつたのです。
原罪はこの世に生を受け未ダ繰リ返ス細胞増殖ノ摂理に甘んじてゐること。さうしてゐる限りコノ輪廻からは脱出出来ないのです。

神曲において嘆きの川での氷漬けは永劫―しかし天堕つ刻ルシフェルは再び明星の光を望むのだらうか。一度暗闇に魅せられた者が創造主の元に帰る術は?その価値は?


血を流さない女―この世の理に逆らつて生き永らえるサキュバス。
楽園ヲ追ハレタ者―アダムとエヴァ。
カインの末裔―神喰いノ原罪ヲ背負ヒナガラ今モ増殖シ続ケル亜種。





ユダの幻族は最下層コキュートスに堕とされると云ひます。





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